闇の中の一人だけの酒宴も、すっかり日課となっていた。
 相変わらずアルコールに酔うことはできず、ただ自らを傷つけるためだけに思い出す記憶にのみ酔う。
 傷はふさがる気配も見せず、常に鮮血を流していた。
 シュバルツ自身が、治癒を願ってはいなかった。


 マンションの中には、アーバインの思い出が満ちている。
 前触れもなく現れることが多かった。それも、シュバルツのいない時を狙いすましたかのように、無断で潜り込んでいることが。
 アーバインにとって、ここは気を許せる場所であったのか、ソファでーーシュバルツが今まさに腰を落ち着けているその場所で、うたた寝をしていることもあった。あまりにも気持ち良さそうに眠っていたから、あえて起こすようなことはしなかったのだが、こうなってみると、無理やりにでも起こして同じ時間を共有すれば良かったと思う。
 いつ来てもいいようにアーバイン用に揃えた者は、まだ整理していない。
 毎日のように飲んではいても、アーバイン用のウィスキーには手をつけていない。
「アーバイン」
 呼ぶ声に、応える気配はない。


 思い出と記憶とは、違うものだと誰かが言った。
 思い出には、いいものしかないのだ、と。
 ならば、アーバインとの過去は、記憶ではなく思い出にしかならないはずなのに。


 アーバインが死んだと言う。
 アーバインが死んだと聞いた。
 とうてい信じられるものではなかったが。
 信じられないのは、死体を見ていないからではない。
 信じたくない、というわけでもない。
 アーバインが死んだという、その瞬間を自分は感じていなかったからだ。
 アーバインが、夢の中にも別れを告げに来た覚えはない。
 虫の知らせも、妙な胸騒ぎもなかった。
 それがただ、口惜しい。
 それがために信じられない。
 信じる気に、ならない。


 かつて、アーバインに囁いたことがある。
 死にかけたことがあるのだと、冗談混じりに言ったときのことだ。
「勝手に死ぬなよ、アーバイン。お前は私のものだということを、忘れるなよ」
 アーバインが死んだら、おそらく自分も生きてはいまい、と、そう思っていた。
 実際は、確証がないとの言い訳のもとに、こうして生き長らえているわけだ。
「私を殺せるのは、お前だけだ」
 そう言うと、アーバインは嗤ったようだった。
「逆だろ。いつだって、アンタが俺を殺すんだよ」
 言葉の意味を訊ねても、アーバインは答えなかった。
 いまだに、その意味はわからない。
 結局、シュバルツの知らないところで、アーバインは逝ってしまった。

 青い、蒼い薔薇の存在を知る者が、また一人になってしまった。
 そう気付いたとき、今までにない喪失感がシュバルツを襲った。
 秘密を共有するものが、この世にはもう存在しない。
 世界を隔てる青薔薇の垣根を、アーバインは越えてしまった。
 追いかけたくとも、薔薇の棘が邪魔をする。
 御伽噺の王子様は、どうやって茨の森を抜けて、お姫様のところに辿り着いたのか。
 教えてもらいたいものだな、とシュバルツは思う。
 その方法がわかっても、そこにアーバインが眠っているとは限らないのに。


 涙は出ない。
 アレも泣かないヤツだった、とシュバルツはアーバインを思い出す。
 シュバルツの前でアーバインが泣いたのはただ一度きり。
 ウルフが死んだときのこと。
 アーバインをサイクスに、あるいはサイクスをアーバインに引き合わせたあの事件の後、アーバインは人知れずシュバルツの胸を濡らした。
 その瞬間まで、アーバインは一滴の涙もこぼしてはいなかった。シュバルツが余計なことを言いさえしなければ、おそらくウルフのためにアーバインが泣くことはなかっただろう。
 サイクスを真の意味で相棒と認めるためにも、アーバインにはウルフの死を昇華する必要があった。
 だから、泣かせた。
 それでも、今のシュバルツには泣くことができない。


 涙は流れない。
 流さない。


 泣きたくはなかった。
 泣くことで、アーバインの死を受け入れてしまうようなことは、したくなかった。
 昇華することなど、整理することなど、落ち着かせることなど、したくなかった。
 できないのではなく。


「アーバイン」
 暗闇にシュバルツは呼びかける。
 手の中には、氷の溶けきったグラスがある。
「アーバイン」
 戻って来い、とシュバルツは呼ぶ。
 生きているなら、その姿を現してみせろ、と。
 死んでいるなら、さっさと迎えに来い、と。
 理不尽といえば理不尽な命令を、存在しない人間に繰り返す。
 叶うはずもない、望みにも似た命令を、聞く者はいない。
 シュバルツの手首がひらめく。
 グラスが壁にあたり、悲鳴を上げて芳香を撒き散らした。
 シュバルツの手が祈るように組み合わされ、額に押し当てられる。
 噛みしめられた歯の間から洩れる声は、嗚咽ではなかった。


 記憶の小径を辿って、新しい傷を求める。
 思い出す過去が美しいほど、傷は深く抉られた。
 美しい過去は思い出のはずなのに、記憶となってシュバルツを苛む。


 それでもシュバルツは、夜毎、記憶の小径を辿る。
 その道が、アーバインに続いているかのように。
 茨の垣根を越えたところに、アーバインがいると、知っているかのように。






 

初出 『Agonie』 (2002.08.09発行)
神飛鳥 脱稿 2002.08.09
寿   入力 2010.01.16
※【訃報 ・前】後の時系列。
※神飛鳥(現在は「おお振り」&「バッテリー」サイト[Cross Fire])の許可を得て掲載。
誤字・脱字等の責は寿による。