失えない何かを喪失したとき、人は四つの段階を経て受容に至るという。
 事実から目を背ける『否認』がその一。
 やがてそれは、『怒り』に変わる。
 周囲に当たり、運命をなじった後は、神と『取引』をしようと考える。
 そして、『準備適悲嘆』、『受容』。
――そんなものを知っていても、何の役にも立たんな。
 テーブルの上には、既に空になった酒瓶が数本、乱立している。『怒り』の状態にあるこを客観的に判断できても、感情の昂ぶりを抑えることはできない。
――なまじ、死体がないだけにタチが悪い……。
 アーバインの抜け殻を目の前に突きつけられれば、否が応にも認めざるを得ない。死体がないことで、もしかしたら、という希望を捨てきれない。
 そのくせ、アーバインの生存を信じてはいないのだ、この愚かな男は。
 酒瓶の林を薙ぎ払う。
 訃報を聞いたあの日から、睡眠も食事も極端に減ったシュバルツにとっては、アルコールが唯一の糧だった。


 登庁したシュバルツを待っていたのは、そういう言い方が許されるのであれば休職命令だった。
 自分では普通に仕事を進めていたつもりだったし、事実何の滞りもなく進んでいたのだが、日に日にやつれていく外見だけはどうしようもなかったようだ。
――睡眠も食事も摂らず、酒ばかり飲んでいたのでは、当たり前だがな。
 自嘲の微笑を浮かべ、シュバルツは命令を拝諾した。


 適当に荷物をまとめ、シュバルツはマンションへ戻った。休暇を得ても、自分の邸宅にまで帰るつもりはさらさらなかった。
 直通エレベーターのボタンを押す。
 すぐに扉が開くはずのエレベーターは、何故か最上階から降りてきた。
 一抹の期待が胸をよぎる。
 還ってくるはずのない人間が、帰ってきたかのような幻想。
――まさか……
 愚かな自分を笑い、シュバルツは警戒心のカケラもなく箱に乗り込む。テロや刺客であるならば、歓迎さえしたかった。


「お帰りなさいませ」
 落ち着いた初老の男声に迎えられ、シュバルツは珍しく動揺した。
 動揺というより、狼狽に近い。
「ハインツ……何故お前がここに……?」
 本邸で雑務を取り仕切っているはずの執事が、シュバルツの目の前にいた。
「旦那様より、カール様のお世話をするよう命ぜられましたので」
「トーマ、あいつが……」
 シュバルツ家当主の座は、すでにシュバルツからトーマへと譲られている。
「彼の方が亡くなられたと聞きました。気持ちのいい方でしただけに、残念です」
「ハインツ!」
 過去形でアーバインのことを言うハインツに、シュバルツは思わずとがった声を投げた。
「私の前でアレの話をするな……」
 シュバルツの声を聞いたハインツの瞳に、何かを測るような色が浮かぶ。
「かしこまりました。申し訳ございません」
 それでも彼が口にしたのは、そんな言葉だった。


 ハインツがマンションに現れたその日のうちに、シュバルツは己の邸宅へと帰っていた。その理由は、マンションでアーバイン以外の人間と過ごしたくなかったという、ただそれだけに尽きる。
 そうして数日後、ハインツによって通常の生活を取り戻しつつあったシュバルツのもとに、一人の青年が訪れた。黒い髪と黒い瞳を持つ、戦場を共にしたことも戦場で相見えることもあった青年。死を予知する鳥と、同じ名を持つ。
「無様だな」
 開口一番、レイヴンはそう言った。会わなかった年月を物語る長い髪を、鬱陶しそうに掻きあげて。
「かつての君に比べれば、ずいぶんマシだとは思うが」
「……自分を見失っていたか、分裂させたかにそう違いはない」
 皮肉を直接ぶつけてくるシュバルツに、レイヴンは苦々しげに吐き捨てる。
「誰に言われてここに来た? リーゼはどうしだ?」
「誰に言われたとしてもお前には関係ないし、リーゼを連れてくる必要もない」
 応接間に二人きり。時候の挨拶も何もなく、互いの胸を読もうと言葉を交わす。
「シュバルツ。今の心境は?」
 反撃とばかりにレイヴンが言う。
 優雅な仕草でコーヒーカップを口許に運んで。
「そうだな。死刑を宣告された囚人というところか」
 レイヴンの手の中で、カップとソーサーがぶつかった。コーヒーがわずかにこぼれたかもしれない。
「……驚いたな」
 表情だけでなく言葉でもそう言って、レイヴンはシュバルツを凝視する。
「そんなにあの男に執着していたのか?」
「過去形で言わないでくれないか?」
 驚いたな、と繰り返して、レイヴンはコーヒーを一口含んだ。会話が噛みあっていないことなど、承知の上だ。
「しかし、可哀想に。執行人がいないんじゃないか?」
 シュバルツの言葉を受けた上で、レイヴンは的確に返す。
「お前が執行人になってくれるか?」
 笑いを含んだ声は、全く本気ではないが。
「悪いが、負け犬の情夫を甘やかす趣味は俺にはない」
 唇だけで嗤うレイヴンに、シュバルツが反応を示した。
 相対してから初めて見るシュバルツの人間的な反応を、レイヴンは愉しむ。反応させた言葉は、「情夫」か「負け犬」か。
「レイヴン。私への侮辱はまだ許すが、アーバインを貶めることは許さない」
「負け犬は負け犬だろう。他に何と言えと?」
「レイヴン……ッ」
 憎悪さえも瞳に込め、シュバルツはレイヴンを睨みつけた。
「無様だな、シュバルツ」
 シュバルツの視線を涼しげに受け止めて、レイヴンは冷笑する。
「ただ誰かに殺されるのを待つだけか。自ら死を求めることも、生に執着することもしないで」
「何が言いたいッ!?」
「べつに」
 視線を外し、レイヴンはコーヒーを飲み干す。あくまで優雅にカップを戻して。
「そろそろ失礼しよう。招かれざる客が、長いしては迷惑だろう?」
 心にもないことを言って立ち上がった。
「待て、レイヴン!」
 踵を返そうとするレイヴンの手を、シュバルツが掴む。
「帰る前に言いたいことを言って行け」
「言いたいこと? ……ないな」
 腕の一振りで、シュバルツの手を払って。
「負け犬に言うことなど、何もない」
 冷たく言い放ち、シュバルツの反応を確かめずに部屋を出た。


 束の間の忘我から立ち直ると、シュバルツは声を立てて笑った。嘲笑が、己の底から溢れてくる。
 レイヴンを見送ったハインツが戻ってきて、困惑した表情をシュバルツに向けてきた。手を振って退がれ、と示して。
 衝動のままに笑い続け、波が引くように笑いを収めた。
「私も負け犬と判断したか……」
 いっそ愉快だった。
「……無理もない」
 弱いから死ぬのさ、と言い放ったレイヴンならば。
 死刑執行人からを求めることで、死を希むシュバルツなど。
 自ら死ぬ覚悟もできない負け犬にしか見えないのだろう。
 消極的な自殺願望。







 執行人のいない死刑囚など、一番始末に困るものだというのに。





 

初出 『Agonie』 (2002.08.09発行)
神飛鳥 脱稿 2002.08.09
寿   入力 2010.01.15
※【訃報 ・前】後の時系列。
※神飛鳥(現在は「おお振り」&「バッテリー」サイト[Cross Fire])の許可を得て掲載。
誤字・脱字等の責は寿による。