「……シュバルツ卿。これは公務ではありません。僕と、あなたの、私的な会話ということです」
 かすれ、絞り出す声で、ルドルフは師であり臣下であり仲間である彼に、告げた。
「アーバインが、死んだそうです」
                                 ――『訃報・(前)』より



「アーバインが、死んだそうです」
 その一言を口にしたルドルフの、自身が殺されつつあるような表情が眼裏に残っている。
――そういえば、どうやって私はここまで帰ってきたのだったか。
 夜半をとっくに過ぎたが、部屋の中に明かりはない。宮城に程近いマンションの一室。カーテンの隙間から洩れ入る月光だけが、薄明く部屋を照らし出す。
 闇に沈むソファに座り、シュバルツは一人でグラスを重ねていた。
いくら飲んでも、不思議と酔いが廻ってこない。
――ああ、そうだ。
 獣のように光る瞳を束の間伏せ、シュバルツは口許を歪めた。


「ありがとうございます、陛下」
 穏やかな午後のひととき。今と同じように、シュバルツは微笑んでみせたのだ。
「シュバルツ卿……?」
 怪訝そうなルドルフの表情に、シュバルツは微笑を深くする。
「お知らせくださり、ありがとうございます。これで、正式報告のときにも取り乱さずに済むでしょう。業務に支障をきたすわけにはまいりませんから」
「何を……あなたは何を……いったい……」
 ルドルフの首が左右に振られる。信じられないと言うように。
 言わないでくれと、言うように。
「謝意を述べております、陛下」


 夏の暑い日に陽炎の向こうに見えた木陰のような暗闇から、月光の下の薄闇へと、シュバルツは戻ってきた。
 闇の中に、ルドルフの泣き出しそうな顔を描く。
――あるいは、泣いていたかもしれないな。
 シュバルツが気付かなかっただけで。
――私的な会話の中でなら、咎めるわけにもいかんな。
 皇帝が臣民でもない一個人のために涙を流すなど、あってはならないことである。皇帝という存在は、全ての臣民に対して公平かつ公正であらねばならないのだ。それが公的な場であるなら、一介の将に過ぎないシュバルツにすら許されることではない。いや、一介の将であるなればこそ。
――しかし、泣けないものだな。
 簡単に涙を溢れさせたルドルフに比べ。ルドルフよりも親密で濃密な時間を共有したはずの自分は、瞳も頬も涸いたまま。
――何故。
 極上のブランデーを、味わうことなく飲み干して。


立ち去ろうとしたシュバルツを、ルドルフは呼び止めた。
「まだ、何か?」
 生徒であり主君であり仲間であり、今また共通の知人の死を悼む同志に対し、シュバルツの口調はあまりにも冷たい。故にルドルフは、シュバルツの受けた衝撃の大きさを察する。
「大切なことです」
 覚悟を決めるために、大きく息を吸って。
「アーバインは、みつかっていません」
 激痛に耐える風情のルドルフを、シュバルツは直視した。
「……それは、どういう……?」
 知らず、声が震える。
「言葉を飾らずに、ある仮定のもとに言えば……アーバインの死体は出ていない、と。そういうことです」
 固く目を瞑り、ルドルフは決定的な一言を口に出した。強く握り締められた拳から鮮血が溢れ、テーブルクロスに染みを作る。爪が掌の皮膚を破ったのだろう。
 冷静に止血をしたうえで、シュバルツはさらに微笑んだ。
「ならば、アイツは生きているかもしれません」
「……状況から見れば、絶望的だそうです」
 テーブルの一点をみつめ、ルドルフは吐き捨てる。震えるその手を、包み込むように願って。
「アイツは、そういう男でしょう?」
 自らをも追い詰めようとするルドルフに、そう微笑んだ。


――はずだったのだがな。
 思ったように顔の筋肉は動かなかったようだ。


「あなたでも気休めを言うことがあるんですね」
 今にも泣き出しそうな顔で、ルドルフは微笑んだ。いつの間にこんな表情をするようになったのか。
「すみません、先生……すみません……」
 先生と、皇太子時代のよういシュバルツを呼び、ルドルフはただ、すみませんと繰り返した。

 謝罪の意味を尋ねても、ルドルフはただ同じ言葉を繰り返すだけで。
――それで仕方なく辞したのだったな。
 宮城を辞した足で、何軒かの店をはしごして、双子月の下、全く酔わない体をここまで運んだのだった。
 一人の人間がいなくなったというただそれだけで、よくもこうまで弱くなれるのだと、むしろ嘲笑いさえ浮かんでくる。
 カーテンから差し込む光が、いつの間にか明るい。
――ああ、そういうことか。
 容赦なく明るい陽光に、いきなり全てが見えた。
――泣けないのも、酔えないのも、陛下のあの言葉も。
 頭のどこかでは訃報を確信しながら、心のどこかで無事を確信している。滑稽にもきれいに両極へと分かたれた己が、涙も酔いも受け付けるだけの余裕を持っていないのだ。
 そうして、シュバルツのこんな状態を、年若い皇帝は即座に見抜いたのだろう。自分のもたらしたものに、責任を感じたのかもしれない。
 陽光を拒むように、シュバルツは目を閉じた。
 あと数時間もせずに、昨日と全く変わりなく仕事に戻らねばならない。
 昨日までの自分を、思い出さねばならなかった。
 変わらない日常を、演じるために。


 

初出 『Agonie』 (2002.08.09発行)
神飛鳥 脱稿 2002.08.09
寿   入力 2010.01.13
※【訃報 ・前】後の時系列。
※神飛鳥(現在は「おお振り」&「バッテリー」サイト[Cross Fire])の許可を得て掲載。
誤字・脱字等の責は寿による。