或ル国ノ話

067.grasp the baby's wrist and life



暗闇の中、液体が滴る音と共に女が産婆の手首を掴む。
椅子に座って休んでいた産婆はすぐに立ち上がり、女の顔を覗き込む。

「来たかい」

「今、破水、を」

出産の前兆は、3日前の出血から始まっていた。

「よし、体を起こすよ」

老婦人は内密に口の堅い産婆に準備を依頼し、女は館の離れに籠った。

「……そう、ゆっくりと起こしな。焦らなくていい」

腹部が目立つようになってから女は極力人前に姿を現さぬようにしていたが、館の者たちは薄々その妊娠に気が付いている。
それでも決定的な場面を見せぬように隠れたのは、秘密の保持のためでもあるし、館の召使の身の安全を守るためでもあった。

「枕が背中にあたっているかい? 手を離すよ」

生と死の境。
秩序の混沌を恐れた原始の慣例により産屋は締め切られ、満月の光すら入らない。
炎を極力小さくした燭台から漏れる光が、産婆と女の輪郭を淡く浮かび上がらせる。
陣痛が始まったのは今日の昼前。子宮の収縮と頸管の開放による痛みの間隔は時間を経て狭まり、実に一日をかけて胎児が生まれ出る準備が整う。

「膝を曲げて、立てるんだ」

上半身を起こせば、女は痛みと共に、胎児が腹中で移動するのを感じる。

「痛みに合わせていきむんだよ。息を吸って、止めて、……吐いて。さあ、繰り返してみな」

長い長い初産の、長い長い苦痛が始まる。




――――痛み、痛み、痛み、痛み、痛み、痛み、痛み。




月が天球を傾く。

長時間の痛みにさいなまれ、女は気力と体力を消耗していた。
すでに痛みは一日と半分、続いている。

「いいかい、声を出すんじゃないよ。力が抜けるからね」

産婆の鋭い囁きに、女は返事をすることもできない。

「だいじょうぶ。死ぬような痛みじゃあない」

激しくなる陣痛に緊張と弛緩を繰り返す女の体は、徐々に痛みに息を止める時間が長くなる。

「だいじょうぶ。死にゃしない。あんたは産めるよ」

女の手が敷布をきつく握り締める。

「だいじょうぶ。……頭が出てきた。逆子じゃない」

もはや振るわせる声もなく、女の喉が反り返る。

「長く、……まだ、まだだっ」




――――音も無く、声も無く。赤子がこの世に生まれ落ちる。




線が切れたように、女が寝台へ崩れ落ちる。

産婆は赤子の顔を拭い、全身を女の胎内からを取り上げる。
最初に肩、次に両脇の下を引き出す。そして赤子を引き寄せ、細長い木管で鼻腔や口腔の羊水を吸い出す。

「……生きて、いま、す、か?」

女の声は細く、そして震えている。
赤子の声が、女には聞こえない。

「だいじょうぶ。死産じゃない、生きてるよ」

産婆が囁く。
清められた銀器が赤子の臍帯を切断し、女と赤子を断ち切る。

「たまに、夜中に産気づくとこんなことがあるもんだ。外も親も静かだと、産まれる子も静かなことがね」

ゆっくりと、身を起こす。

産湯にも浸かっていない赤子を産婆から受け取り、女は新たな命を掴んだ。



脱稿 2007.07.03
改稿 2007.08.10