或ル国ノ話

068.nail her down to her children or the man



――ふああぁ、ふああぁ。

猫のような泣き声をあげる生き物に爪を立てられ、女は硬直する。
爪を立てられたといっても、先日に産まれたばかりの嬰児のこと、たいした力ではない。
むしろその力の弱さ、その手の小ささ、脆弱さに恐れを、女は抱く。
加減を誤れば潰しそうで、産んで3日経ていながら、女は、自らが子を産んだことに実感がない。
悪露が減り、やっと今朝方顔を見る余裕が出た、という理由もありはするが。

(柔らかい……。
 ……あぁ、爪が奇麗な形をしていますね。
 手も、足も、……貝の、ような爪。
 …………しかしこの子は何故こうも泣いているのか)

「泣いているではないの」

小さな寝台のそばで硬直し立ち尽くした女の背後から、老婦人が赤ん坊をのぞき込む。
引き連れてきた召使が、女の寝台の敷布を取り替える。

「はい」

返事はするが動けない女。老婦人は呆れる。

「……赤ん坊が泣くのに、たいして深い理由はありません。お腹を空かせたか、むつきを替えてほしいか、寂しいのか、それくらいです」

「そうですか」

老婦人は手早く赤ん坊のむつきを確認し、――「濡れていますね」「……そこの棚に替えがあります。替えて御覧なさい」「…………」「…今日だけですよ。明日からはあなたがするのです」「はい」――手早く湿ったあて布を替える。

「あの」

「どうしました」

「いえ、その、慣れておいでですね」

「一時期、義妹の子を預かったことがあるのです」

「そうですか」

赤ん坊はそれでも泣き続けている。

「あの」

「何ですか」

「泣いているのですが」

老婦人は額をおさえる。

「……『どうしたら良いか、まず自分で考えること』。わたくしの教育は無駄でしたか? 赤ん坊が泣く理由は?」

女は赤面する。

「失礼しました。……まず空腹、次に排泄処理、そして孤独が原因です」

召使は女の言葉に引きつる口元を隠し、部屋の掃除を続ける。体を動かしていないと笑い出しそうになるようで、老婦人はその気配に気づいているのだが、女はさっぱり感づかない。

「……まぁ、お腹がすいているのでしょうね。昨日は重湯を与えましたが、やはり体力をつけるためにも、母乳を与えるのが良いでしょう」

「母乳、ですか」

「………………わたくしに、お手本は無理です」

衝動に耐え切れず、召使は隣室の掃除に向かう。どうやら見えない所でひっそり笑うらしい。老婦人はこれも教育の一環かと無理矢理に理性を納得させ、授乳の仕方を教える。

「胸周りの消毒をし、赤ん坊は横抱きに。……頭が下がりすぎていますよ。それではお乳を喉に詰まらせます。……そう、そうしたら先だけではなく、しっかり含ませなさい」

乳輪まで赤ん坊にくわえ込まれ、刺激に一瞬、女の表情が強張る。

(…………あれは、雨の夜? ……雨の音がよく、響いて……)


――男の手が女の頬を辿り、その唇は首筋から鎖骨を食み、その指は胸をゆっくりと――


「……泣いていますよ」


老婦人の声に、女は過去から引き戻される。
赤ん坊かと見下ろせば、一心に乳を吸おうと口を動かすばかり。
泣き声などは当然聞こえない。
はて、と内心首を傾げれば、


「娘とは、呼べません」


ゆっくりと頬を拭われる。


「あなたも、母とは呼ばれません」


女は老婦人を見上げる。

「……私は、今、泣いていますか?」

「えぇ」

「……悲しくはないのです」

「そう」

「ほんとうに、かなしくは、ないのです」

「そうね」

老婦人は女の頬を、ゆっくりと拭い続ける。

ようやく乳が出始め、赤ん坊は女の乳房にしがみつき、懸命に吸う。

爪を立てられた痛みに、女は悲しいほどの至福を、


(……もう、ないと、……っ)


再び感じた。



脱稿 2007.06.26