――ふああぁ、ふああぁ。
猫のような泣き声をあげる生き物に爪を立てられ、女は硬直する。
爪を立てられたといっても、先日に産まれたばかりの嬰児のこと、たいした力ではない。
むしろその力の弱さ、その手の小ささ、脆弱さに恐れを、女は抱く。
加減を誤れば潰しそうで、産んで3日経ていながら、女は、自らが子を産んだことに実感がない。
悪露が減り、やっと今朝方顔を見る余裕が出た、という理由もありはするが。
(柔らかい……。
……あぁ、爪が奇麗な形をしていますね。
手も、足も、……貝の、ような爪。
…………しかしこの子は何故こうも泣いているのか)
「泣いているではないの」
小さな寝台のそばで硬直し立ち尽くした女の背後から、老婦人が赤ん坊をのぞき込む。
引き連れてきた召使が、女の寝台の敷布を取り替える。
「はい」
返事はするが動けない女。老婦人は呆れる。
「……赤ん坊が泣くのに、たいして深い理由はありません。お腹を空かせたか、むつきを替えてほしいか、寂しいのか、それくらいです」
「そうですか」
老婦人は手早く赤ん坊のむつきを確認し、――「濡れていますね」「……そこの棚に替えがあります。替えて御覧なさい」「…………」「…今日だけですよ。明日からはあなたがするのです」「はい」――手早く湿ったあて布を替える。
「あの」
「どうしました」
「いえ、その、慣れておいでですね」
「一時期、義妹の子を預かったことがあるのです」
「そうですか」
赤ん坊はそれでも泣き続けている。
「あの」
「何ですか」
「泣いているのですが」
老婦人は額をおさえる。
「……『どうしたら良いか、まず自分で考えること』。わたくしの教育は無駄でしたか? 赤ん坊が泣く理由は?」
女は赤面する。
「失礼しました。……まず空腹、次に排泄処理、そして孤独が原因です」
召使は女の言葉に引きつる口元を隠し、部屋の掃除を続ける。体を動かしていないと笑い出しそうになるようで、老婦人はその気配に気づいているのだが、女はさっぱり感づかない。
「……まぁ、お腹がすいているのでしょうね。昨日は重湯を与えましたが、やはり体力をつけるためにも、母乳を与えるのが良いでしょう」
「母乳、ですか」
「………………わたくしに、お手本は無理です」
衝動に耐え切れず、召使は隣室の掃除に向かう。どうやら見えない所でひっそり笑うらしい。老婦人はこれも教育の一環かと無理矢理に理性を納得させ、授乳の仕方を教える。
「胸周りの消毒をし、赤ん坊は横抱きに。……頭が下がりすぎていますよ。それではお乳を喉に詰まらせます。……そう、そうしたら先だけではなく、しっかり含ませなさい」
乳輪まで赤ん坊にくわえ込まれ、刺激に一瞬、女の表情が強張る。
(…………あれは、雨の夜? ……雨の音がよく、響いて……)
――男の手が女の頬を辿り、その唇は首筋から鎖骨を食み、その指は胸をゆっくりと――
「……泣いていますよ」
老婦人の声に、女は過去から引き戻される。
赤ん坊かと見下ろせば、一心に乳を吸おうと口を動かすばかり。
泣き声などは当然聞こえない。
はて、と内心首を傾げれば、
「娘とは、呼べません」
ゆっくりと頬を拭われる。
「あなたも、母とは呼ばれません」
女は老婦人を見上げる。
「……私は、今、泣いていますか?」
「えぇ」
「……悲しくはないのです」
「そう」
「ほんとうに、かなしくは、ないのです」
「そうね」
老婦人は女の頬を、ゆっくりと拭い続ける。
ようやく乳が出始め、赤ん坊は女の乳房にしがみつき、懸命に吸う。
爪を立てられた痛みに、女は悲しいほどの至福を、
(……もう、ないと、……っ)
再び感じた。
脱稿 2007.06.26