或ル国ノ話

063.zip up lip !



「――危ないっ」



小間使いは人生最速の瞬発力で、寝椅子から落下中だった幼児の頭を支えた。




薄い唇をかすかに開け、幼児は眠っている。
この冬に3つを迎えるのだが、起きていれば邸内を駆け抜け、眠っている今でも豪快に寝返りを打つ。
総石造りの屋敷は、床も当然石組みだ。この寝相の勢いで転がり落ちればただでは済むまい。

「危なかったわ……。なんでこんな所にいるのかしら」

小間使いが掃除に来たこの部屋は、書庫に近い空き部屋の1つ。
幼児がいつも走り回る屋敷の中心からは離れているし、まさか書物を読みに来たわけでもないだろう。

(親がいないからかしらね。兄弟がいるって話も聞かないし、いっつも面倒見てもらってるわけじゃないのかも)

この幼児、普段は屋敷のあちらこちらを動き回り、どこへ行っても屋敷の主人や他の召使に構われている。一人でいるのを、小間使いは見たことがない。

7人兄弟の一番上としては、小さな子どもから目を離した隙に起きる『惨劇』は耐え難いことであった。

(なんで妹の喧嘩であたしが叱られるわけ?
 わけわかんないし。
 だいたい、ご先祖さまの像の首折ったのはあたしじゃないっての)

郷里の父母の拳骨を思い出してはたぎる怒りも、寝息をたてて眠る幼児を見れば瞬く間におさまってしまう。

行儀見習いとして屋敷にあがり、喧しい両親も小うるさい弟妹もいない。
そんな解放感を味わってはいたのだが。

(寂しくなんか、ないわよ)

たまの休みに街へ下りれば、故郷の特産品を探してしまうこともある。

小間使いはため息を飲み込む。
気分を切り替え、幼児に目を向ける。
「よく寝てるわねー」

熱波も厚い石壁に防がれ、吹き抜ける風は涼やか。
加えて屋敷の喧騒から離れた室内は適度に薄暗いときては、幼児が目を覚ます気配は、全く無い。

幼児の頬に、そっと触れる。


柔らかい。


「やだ、全っ然起きない」


弟妹たちは触れる前に気配で起きていた。
うかうか眠っていると、落書きをされるからだ。

「こんなんで、だいじょうぶなの?」


もう一度、つつく。



ぷに。

ぷにぷに。



「……た、たまんないわー」

驚くべき柔らかさに感動し、また、さっぱり起きない幼児に対して調子に乗った小間使いは、

(次は、息がかかるところまで…)

その鼻先ぎりぎりへと、ゆっくりと人差し指を伸ばし――





「―――――――――っ!!!!!!!」





―――幼児に指を喰われた。







…………正しくは、幼児が小間使いの指先を『あむっ』とくわえたのだ。

この結果、大騒ぎをした小間使いがうっかり幼児を起こして大泣きさせ、駆けつけた古参の召使にこっぴどくお説教され、罰として幼児の『お世話係』も命じられて踏んだり蹴ったりの半泣きになるのだが。




それはまた、別の話である。



脱稿 2009.09.09