或ル国ノ話

062.hold her own ears without hands



辺境地域における教育事情は厳しい。

子弟の教育は躾と並んで家庭内で行う風習があったため、公教育は制度としてはほとんど存在しない。
ただし、地方自治体や裕福な家庭に家庭教師として採用された者は税の優遇措置(人頭税の控除など)が認められていたので、完全に放置されていたわけでもない。
この措置が導入された結果、近隣諸国から優秀な人材が教師の身分で集まり、学院や術院の水準は著しく引き上げられた。
結果、父母が教えていた読み書きなどの基礎的な教育は、より高い教養を持った外国人に教授させることが上流階級で流行する。
中流〜上流階級における子弟の養育が『外注』されるのはこの時期からである。


辺境地域における教育事情は、この流入にも関わらず厳しい。

これは教師の絶対数の不足による。
優秀な教師の中にはやはり学者志望の者が多かったし、首都の学院や術院への入学・研究を望んだ。
また、文筆業の傍ら副業として教師をする者も、有力者の後見や観客の得やすい首都での活動を好む。


辺境地域における教育事情は、かくして厳しさを増すのである。

良家の親は教師集めに奔走し、人材の過剰争奪により給金額は跳ね上がる。
自然、中流階級以下の家庭では数家族まとまって、また無産階級(子供以外に財産を持たない者)は村や町単位で費用を持ち合い、子供達を集団にして教育を受けさせるようになった。
この場合、多くは首都から伝手を頼って人を呼ぶために、給金以外に衣食住も教師に提供したのである。
この際、貢献したのが地域の有力者、或いは首都で成功した『成り上がり』達である。
彼らの自発的な寄付・土地の寄贈や人材そのものの提供・基金の設立は、たとえそれが幾ばくかの見栄を含むとしても、首都との格差是正に一定の成果を見たのだった。




老婦人の敷地にある神殿は家門がこの地域に移住した記念に建立されたもので、昼間であれば街の住民に開放されている。
老婦人も商用は母屋で進めるが、地方議員としての公務はこの神殿の一室で執っている。

神殿の入り口は円柱の立ち並ぶ広間につながり、風通しもよく涼しい。
片隅では近隣の子供たちが計算の授業を受けている。神殿に備え付けられた黒板に、白墨の切片で数字が書かれる。
子供らが使っている書板は板切れを束ねて鉄筆に刻み付けるもので、これらもまた神殿からの貸し出しである。


製紙法(皮紙を含む)はすでに他国から伝わっていたが、動物の皮をなめしたり植物繊維をすいたりと手作業で生産されていた。紙は高級品であったので、蝋をしいて繰り返し使える書板や計算板が使用されている。


その日、女が計算の授業を引き受けたのは偶然だった。
授業時間は夜明けから昼前までで、年始年末の僅かな期間を除き休みなく続けれられる。
そのため担当教師が急病で倒れても休校とはならず、たまたま休みであった女が「暇ならばお願い」と老婦人に依頼されたのだ。



―――教える科目は、ほぼ決まっていた。
初等教育(6・7歳〜)は読み書き計算と著名な文学・歴史で、多くは15歳の成人を迎えるまでに終了する。
その後は法学・弁論術・修辞学など(15・6歳〜)か首都の学院や他国の大学での高等専門教育に続いた。
特に前者は首都での立身を目指す若者たちが、その準備として修めた。
古来より議会での案件はその弁論の優劣において左右され、国政に携わるものであれば教養の常識とされている。
故に野心に燃える彼らにとって必須技能といえたのだった。
ちなみに初等教育では割合・分数まで教えていたが、これは税制に十分の一税や五分の一税などを用いていたためである。
(【例題】『昨年度の年収を100とした場合、今年度の年収は120と増加した。この場合国家に納める税制を、@国籍所有者A外国籍者、に分けて求めよ』など)



「5・6桁のように桁数の多い計算を行う場合は、必ず計算板を使うように。
細かい計算間違いが直らないのは、手順を飛ばして暗算で行おうとするからでもあります」

子供らが音を上げる。

「先生〜、めんどい〜〜」
「何回やっても合わない!」

女が一人一人の計算板を手に取る。

「ここの繰り下がりが違います」
「先生、おれは?」
「数字が判別できません。まず相手に読める字を書きなさい」
「全部やり直し?」
「身に付かなければここに来ても意味はありません。嫌ならばお帰りなさい」
「え〜〜〜〜」

不平をもらす子供の隣で、少女が笑う。
まだ2・3歳の弟を背負い、あやしながら授業を受けている。

「先生、これでいい?」
「丁寧な字ですね」

女は目を通し、少女に計算板を返す。

「よくできています、全問正解です。本日は終わりにしていただいて結構ですよ」
「あー、ずりぃっ」
「いーなーいーなー」
「早く遊びたい!」

騒ぎ出した子供らに、女は静かな一瞥を与える。

「合格基準は9割、50問中45問正解すれば帰宅を許可します。44問では50問追加です。
しゃべらず、ゆっくりと、私に読める字で計算を行えば早く終わりますよ」

女は続ける。

「質問がある者は挙手して私を呼び、小声で行うこと。
大声を上げて周囲の妨害をすれば、さらに50題追加します」

途端、子供らは静まり返って計算を始める。

鉄筆の音が響く中、少女が手を挙げる。

「どうしました」
「先生、わたし、もうちょっとここにいていい?」
「かまいませんが、その子はどうしますか」
「いいの。寝てるし、席に座らせておけばいいもの」
「あなたはどうしますか」
「何か手伝えることあります?」
「……そうですね」

女は少女に黒板や使い終わった書板の清掃を頼んだ。
小さな弟は椅子で眠り、少女は楽しそうに白墨を拭き取る。
涼風が吹き抜ける中、女は行き詰った子供らの質問に応える。

その日の授業が終わったのは昼少し前であった。



「先生、黒板はどこに片付けておくの?」
「その奥の部屋です。ああ、重いので私が持ちます。あなたは計算板を持ってきてください」

子供らは合格すると、我先に神殿を飛び出していった。運動場に行く者もいれば、軽い昼を食べに家に帰る者もいる。
少女と小さな弟は最後まで残っていた。

「片付きましたね。ありがとう」
「いいの、いつもこれくらいまでいるし」

少女は眠りこけている弟の涎を、優しく拭ってやる。

「あーあ。今日も終わっちゃった」

呟く少女に、女は菓子を渡す。

「どうぞ。お礼です」
「あ、おいしそう!」

二人並んで長椅子に腰掛ける。
甘味が珍しいのだろう、少女は少しずつ少しずつ、食べる。

「先生は食べないの?」

「甘いものは苦手です。……おや、起きてしまいましたね」

小さな弟は椅子からずり落ちてしまったようで、大声で泣き始めた。

「ああもうっ、学校に来たってゆっくりできないんだから!」

苦笑して女は立ち上がり、「ゆっくりお食べなさい」と少女を留め、泣く子を抱き上げる。

「額を打ってしまったのですね。腫れていますが、たいしたことはないでしょう。
ほら、大丈夫ですよ。菓子をあげましょう」

しばらくして泣き声は止み、女は子を抱いて腰掛ける。

「……この子がいると、わたしのしたいことなんて何にできないの。家でもずっと面倒見てなくっちゃだし。遊んでだって、泣いたらすぐになだめなきゃだし」

少女は頬杖をつく。


「わたし、この子のお母さんじゃないのに」


「…………」

女は応えない。

静かに子をあやす。


「先生上手ね。子供いるの?」


神殿に備え付けの鐘楼から、太陽の南中を示す音が響く。


「あ、いけない。帰らなくっちゃ」

少女は小さな弟を女から受け取り、紐を器用に使って背負う。

「さようなら、先生。また明日ね」
「さようなら、気をつけて」

手を振り、少女は弟と共に神殿の丘を下っていく。
神殿での用を済ませた人々が昼を取りに帰るらしく、神殿の入り口は人の波とざわめきに満ちる。



「…………――――……」 (いません。……います)



呟き、女も老婦人の母屋へと帰っていった。



脱稿 2007.10.23
改稿 2007.10.28