都の建物は石や煉瓦で建設される。
道路も砂利の上を石で舗装され、続く室内も陶磁器製の彩色板を敷き詰める。
彩色板は製造技法が普及するにつれ、色の種類を増やした。神殿や財ある者の邸宅は、床や壁面を美しく複雑な図案や神話の一場面で飾る。
一般に彩色板は、2〜3色の小さな正方形や長方形を用意して使用される。商店では軒先の床に扱う品物や事業内容(壷・油・調味料・獣の肉・野菜・果物・海産品・宝飾品・両替・染色など)が描かれ、看板の文面と併せて市民や奴隷の買い物の目印となる。
屋敷の床は淡く白い彩色板が敷かれ、太陽の光を受けて室内を明るくする。
奴隷頭のところには、昼食後の休みの時間に
行くのが習慣だ。
「これは『じ』を書く道具だ」
今日は板を渡された。
書板というらしい。縦に長い板きれが何枚も重なり、留め具によって、一番上の板をめくれば一番下に持っていけるようになっている。
不思議に思って、何回も板を上から下に回す。
奴隷頭から、言葉以外に都での振る舞い方を教わっている。
食事は手でなく食器を使うこと、床や地面ではなく椅子に座ること(ただし許可を得てから)、相手の目を見て話すこと、毎日浴場に行って清潔にすること、貨幣というものと、その使い方、異種を恐れないことや攻撃しないこと(ただし相手が暴力をふるった場合は別)。
部族とは違う暮らし方がたくさんあり、頭の中はいつも「どうして?」でいっぱいだ。
(『じ』ってなに?)
石版と細い棒を持ち、奴隷頭を見上げる。
「かね、は、わかるな」
銅のお金と銀のお金を1枚ずつ見せられる。
頷く。
「どちらがたかイ?」
洗い場の女に教えてらったのでわかる。
銀のお金を指さす。
「そウだ。どうはぎんをじゅうににわけたうちのひとつだ」
銅のお金が12枚に増える。
「では、これではどちらがたかイ?」
迷う。
『どちらが』と聞かれた。
しかし、十二に分けた一つのものが十二では、比べられない。
「……………………おなじ?」
間違っても殴られないとはいえ、わからないまま答えるのは怖い。
ぽむぽむ。
頭を撫でられる。
見上げる。
「よくできた」
ほめられた。
(…………ほめられた)
「かねがすくなければ、イくらあるかはみればすぐわかる。だがもっともっとオオくなったら、みてもわからなイ。かぞエてもわすれてしまエば、またかぞエなければならなイ」
奴隷頭がお金を示す。
頷く。
「だから、じでかイてのこす。じをみれば、わすれてもおもイだす」
(……のこす?)
奴隷頭が、書板にいくつか線を書き込む。
「これが『1』、これが『12』だ」
『1』と『12』の後ろに、曲線や直線で描かれた模様が並ぶ。
よく見ると、『1』の後ろと『12』の後ろでは模様が違う。
「これは『銀貨』、これは『銅貨』とよむ。これで銀貨1まイと銅貨1まイをかきのこした。そして、『銀貨1枚』と『銅貨12枚』は、おなじおおきさのことをイった」
(……………………ちがうもようなのに、おなじ?)
銀貨と銅貨と石版の模様を何回も見る。
何回見ても、よくわからない。
模様をじぃっと見ていると、頭が痛くなる。
わからなくて、痛くて、怖くて、奴隷頭を見上げる。
「……1つずつおぼエればイイ。きょウはすウじヲオぼエる」
むぐむぐ。
いつの間にか食いしばっていた口元を、奴隷頭にもまれた。
(1つずつ、おぼえれば、いい)
「アしたはきょウのすうじヲ、またやる。イちどれんしゅウすれば、すぐおもイだす。そウしてじかんがアれば、オまエのなまエヲオしエる」
(いちどれんしゅうすれば、すぐおもいだす)
奴隷頭に小さな壷を渡される。
「しょばんにたくさんかイたら、これヲぬってかわかせ。そウすればまたかけるよウになる」
壷には白く濁ったねっとりとしたもの――「ろウだ」、と奴隷頭が言う――が入っている。
「しごとがオわったら、れんしゅウしてみろ」
こっくり。
書板と壷を抱え、頷いた。
店の入り口の床には、洗い桶と服が彩色板で描かれている。
「シアガリハキョウノハズダロマダデキテイナイナンテドウイウコトダイソノブンマケテ――」
「ダカラキョウジュウニシアゲレバイインダシマダコンナヒガタカインダカラ――」
店内の駆け引きは当分続きそうなので、店の外で洗い場の女を待つことにする。
店に用がある者の邪魔にならないよう、入り口の脇に座る。
道行く者は、小さな奴隷が床とにらめっこしていてもなんら構わない。蹴りも怒りもしない。
じぃーーーーーー、と床の彩色板を見つめる。
(おけとふく)
見上げる。
店の入り口には、模様がいくつもを刻んだ看板がはまっている。
しょっていた袋を降ろす。
洗い場の女が破れた服の端切れで、袋を作ってくれたのだ。
袋から書板と鉄筆を取り出し、看板の模様を描き写す。
(『じ』って、なんだろ?)
首をひねる。
看板と書板を見比べる。
一本少ない模様があった。
がりがり。
鉄筆で描き足す。
(『すうじ』と『じ』って、ちがうのかな?)
貨幣の大きさはわかってきたが、『字』を『読む』ということがよくわからない。
(いちどでもれんしゅうすれば、すぐおもいだす。たくさんれんしゅうすれば、もっとすぐおもいだす)
奴隷頭を思い出す。
(おぼえたら、ほめられる)
『計算』はすぐに覚えた。
大きさがわかれば、足したり引いたりするのは簡単だ。かけるのは同じ量を何個も用意すること
、わるのはみんなで同じ量ずつ分けること。1より小さい数を使った『分数』だって、ちょっとできる。
でも、『字』を『読む』ことが、よくわからない。
模様を見る。
「ア、アル、ア、イ、ム、オ、ン、オ」
書板をにらむ。
店の彩色板を見る。
(おなじじゃない。『じ』なんかみても、おけって、あらうところって、わかんない)
頭が痛い。
目がにじむ。
こする。
(わかんないと、ほめてくれない)
がりがり。
もう一度、鉄筆で模様をなぞる。
なぞっていると、書板が暗くなった。
(?)
ごしごし。
目をこする。
「ナニヤッテンダイコンナトコデ」
洗い場の女が後ろに立っていた。
洗い物の値引きに成功したらしく、満面の笑みだ。
「ヨクヤルヨ。コンナトコデモジノレンシュウカイ」
書板をのぞき込む。
「『あらいもの しみぬき おきがるに』。
オヤ、ジョウズジャナイカ」
洗い場の女の言葉が、はっきりと聞こえた。
(……………………?)
「ン? ナンダイ?」
書板の模様をたたく。
「イチ、イチ」
数字を言う。
(もういっかい、いって)
「マタヨメッテ? マッタク」
洗い場の女が、模様を指さしながら言う。
「『あらいもの しみぬき おきがるに』」
はっきり、言葉がわかる。
(なんで?)
書板を見る。
「『ア ラ イ モノシミヌキ オ キガルニ』」
声に出す。
「ソウダヨ。ナンダ、ヨメルジャナイ」
(だって、これ、このもよう、『ア ラ イ モ ノ』ってあのひとにいわれた――――よむ?――2つまとめればおとが――おなじ?)
書板の模様が回る。
目が回る。
洗い場の女が回る。
看板を見上げる。
「『アライモノ』」
石版を見る。
「『アライモノ』」
床の彩色板の絵を見る。
「『あらいもの』」
「……ダイジョウブカイ?」
洗い場の女が腕を組む。
(おなじ、おなじ。おとがおなじ。おとをいえば、『よむ』。あのもよう、『アライモノ』っていえば、『よむ』ってこと。絵の『あらいもの』とおなじこと)
回る。
回る。
看板が回る。
道が回る。
店が回る。
看板の模様が、壁に描かれた模様が、門に刻まれた模様が、意味を持って『字』として飛び込んでくる。
(―――「ちょうこくをうけたまわります」「どれいうります」「きた」「けものにちゅうい」「かれにとうひょうしようてきにんだ」「ふろまみずありかいすいあり」「みた」「べんごにんはこちらまで」「このもんをじひでつくる」「かった」「にくのみせ」―――)
目が回る。
立っていられず、座り込む。
「ちび、ダイジョウブかい? ニッシャビョウかい?
こんなトコロにいるからだ。さっさとカエるよ」
(……わかる)
洗い場の女におぶわれる。
人混みの中、その頭上に2〜3階にある店の看板が見える。
(わかる、わかる)
言葉がわかる。『読む』ことがわかる。
「にくー。ふろー。けものー。どれいー。いしー。けんとうしー」
「はいはい、ヨめてるよヨめてる。おとなしくしてな」
(これよめる。あれよめる)
背中から洗い場の女の頭によじ登り、読み上げる。
「いいカゲンにおダマり!」と、叱られるまで、目につく全ての字を読み続ける。
(わかる、よめた、よめた、ほめられる、わかる)
洗い場の女の背中の白い毛に、顔をうずめる。
「まったく、ナンだってんだか。カエったらさっさとシゴトするんだからね。
……くすぐったいんだから、そこのタテガミヒっパるんじゃないよおちび!」
女はこうして、『知る』ことを知った。
2009.12.12 脱稿