或ル国ノ話

001.the time before she discard herself



夜明けのほんの少し前を出立に選んだのは、女だった。

多くの隊商や旅人達にまぎれられること、日の沈まぬうちに旅程を稼げることを挙げ、老婦人もそれに了承した。
傍目には一行は都を離れる隊商の1つで、女はその護衛の1人にも見える。古株を除き、隊商の使用人も護衛の傭兵もそう思っている。

薄暗い都の大門前は、商人や隊商、旅人たちで混み合っている。
或いは籠を背負っていたり荷車を引いていたりしているのは、近郊の集落に生鮮食料品え買い付けに行く仲買いたちか。
或いは、主な移動手段が徒歩や動物である辺境に行く者たちであれば、旅立ちは永の別れとなるのだろう、名残を惜しむ旅人や親族らの姿もある。

馬の手綱を握り、女は開門を待つ。
開門の時刻は昇る太陽が地平線から離れた瞬間と決まっており、大門に付属する見張り台にて観測され、合図の大鍾が鳴らされる。
大鐘の加護なく開門することは禁じられており、急使のみが夜間に地下道を抜けて出入りすることが許される。
"歪み"や"感染源"の侵入を防ぐために数百年前から始まったこの習慣は、この地に住む民が変わってもなくなることはなく、開門と同時に更新される防壁の呪術や"歪み"をはらう鐘楼の整備は、この都の成長と栄華を示すかのように充実していく。

大鐘をこれほど間近に聞くのは女も初めてで、そろそろ開門かと周囲を見渡す。



暁光。


東方より太陽が昇る。



地平を裂いて陽光が走り、丘陵の雲が浅紅に染まる。
天空は紫紺から藍、そして鮮やかな群青へと濃淡を変える。
街は夜気を払い、白茶けた大通りの舗装は赤味を帯びる。

「開門!!」

門番の声にかぶさり、大音声で大鐘が、そして小鐘が打ち鳴らされる。

夜を破る鐘の音。
素朴な音階が奏でるのは、出発の古歌。"歪み"を退け道中の無事を互いに言祝ぐ。
大門の前で人々は旅程の安全を、そしていつの日かの再会を祈り、出発の挨拶を交わす。



 ……知る者も、知らぬ者も、この一時は皆、旅する者。
    空の下の大地を、海の上の航路を、虚界の中をすり抜ける街道を、
    或いはいのちという名の旅路を。

    この一時は、皆、旅をする者……



言葉を交わす人々を、鐘楼の古歌が浸す。


(私は、この街を去るのか)

唐突に、女は思う。隣の、見知らぬ行商人に挨拶を返しながら。

(私は、この街を、去るのか)

住み慣れたあの部屋を、
通いこんだあの小道を、
武具の修理を頼んだあの馴染みの店を捨てて。


(私は、この街を去る)


知人を、部下を、同僚を、上司を、友人を捨てて。


男を、捨てて。


(私は、この国を去るのだ)



女は初めて、腹の中の子供を憎んだ。

そして初めて、いとしさを感じた。  



脱稿 2006.02.09