「レイディ、御息女は狙われています」
少女を妖精たちから取り戻したあの日。
エクタールはラーフィーネに、そう告げた。
エオの協力を得て館の周囲を調べれば、敷地の四隅には埋められた壷。
珍しい壷ではない。
土で造られ、焼かれ、酒や食料を運ぶために使われる壷。
しかしその中に入っていたのは、ドロリと凝固した乳。
「サンプ・リギーは風の妖精。
人が招かぬ限り、城壁の内側に出るものではない。
出たとしても、あれほど強い風を起こしては力を使い果たし、すぐに消滅するはずだ」
「そのわりには、ずいぶん元気のいい奴らだったぜ?」
「餌としたのが好物の羊や山羊の乳だろう。だがそれだけで、あんな力を持つはずもない。力の助けとなったのが、これだ」
エオは壷から、銀の板を取り出す。
薄く延ばされた銀は円盤状、表面に刻まれた姿は、有角の猿。
「お、似てんな〜」
アダイが銀の板に手を伸ばし――「いってぇ!」――火花が散る。
「まだ術師の力が残っている。触ると危険だぞ、アダイ殿」
「早く言えっての!」
エオは笑い、薬液を銀盤にかけてトネリコの杖の先を近づける。
銀盤が徐々に変色し、やがて全面が黒く染まる。
「術を無効にした。
銀は我ら術師の、力の触媒。
我らの杖にもあるが、こうして離れた場所へ力を導くことにも使える。
サンプ・リギーの絵姿と好物で奴らを呼び、そして銀を伝って奴らに力を与えていた、ということだろう。
……目立つ細工はないな。どこの流派の術師か、たどるのは難しい」
アダイは銀盤を持ち上げ、彫られた一角の猿をなぞる。
「エクタール、お前が最初に見たっつー妖精も、こいつとおんなじだったんか?」
「……そうだ」
「じゃあ、ガキどもさらってんのは全部こいつらの仕業か?」
「……サンプ・リギーは山の風より形を成す妖精。
山を走り、谷を渡り、川を下り、風に乗せて何をも運ぶ。気に入った者を、人知れず連れ去るくらいはできるだろう」
「決まりだな」
「おそらくは。……しかし」
エクタールは顎に手をあてる。
「しかし、サンプ・リギーは山にいる風の妖精なのだ。なぜこんな平地で呼び出す? 風の妖精など、他にも多くいるというのに」
「んなもん、妖精呼んでる奴捕まえりゃわかんだろ?
さっさとお前の兄貴呼び出して、話つけようぜ」
アダイが見る。
エクタールは黙し、何も応えない。
エオが首を傾げる。
「エクタール殿の兄君も、相当の力をお持ちなのか?」
「お持ちも何も、こいつら兄弟そろっていっつも何か見てたし、しゃべってたなー。今日みたいな、向こうから出てきた時じゃねぇんだよ。も、ふっつーに何もねーとこに『おはよう』なんて声かけたりしててよ。
村で変なことがあったら、いつもこいつん家に話持ってくんだわ。こいつの兄貴なんか特に――」
ヒュウッ
エクタールの拳が風を切り、アダイは鼻先でそれを止めた。
「……やられてばっかじゃねーよ。
つーかな、役に立つ奴を連れてくるってのが、お前の好き嫌いでどーにかなるっての、おかしくね?
妖精がらみじゃ、お前の兄貴にどーにかしてもらうのが一番早い。
どのみち、このままじゃどーしよーもねーんだ、兄貴の機嫌ばっかり気にしてどーするよ?」
睨みつけていたエクタール、アダイから腕を引く。
ため息、一つ。
「……道理だ。王と同じことを言う」
それでも心は定まらず、右に、左に、落ち着かなく視線を振る。
ふと、視線が寝台に腰掛ける貴婦人に留まる。
血の気が引き、青ざめた顔。
噛みしめた唇を開き、ラーフィーネは言葉を絞り出す。
「エクタール、あなたの森の、あなたの母君の森の力を、貸して下さいまし」
「……レイディ、しかし、それは」
「あの子を、フィリノーフィアを狙う者を退けて下さるならば、私は、私の泉にかけてあなたに――」
「レイディ!!」
立ち上がり取り縋ろうとする貴婦人を、黒の若者は語気激しく遮る。
「レイディ……わかりました。
ですから、どうか、泉の方、どうかそれ以上は仰らずに」
エクタールはラーフィーネの足下にひざまづく。
「遊び好きとはいえ、妖精の過度の悪戯は人の世の害。
『境が広がった』と言う彼らの言葉も、ひどく気になります。
トゥーガスのエクタール、森に戻り、助けとなる者を、」
言葉を切り、ラーフィーネの白い手に口づける。
見上げたエクタールの顔に、苦しみにも似た笑みが浮かぶ。
「我が兄を、呼んで参りましょう」
2010.05.16