metamorphosis -the decision period-

再会 7


 エオはエクタールを連れ、屋敷の二階に上る。
 一階に広間や台所があれば、二階は主人たちの寝室の間。フィリノーフィアがふだん共寝する母も、そこにいた。
 金のラーフィーネ、月の髪の君、麗しきダルジェンの煌めき。
 亜麻のドレスは襞(ひだ)を成し、潜む下肢はそのすべらかさを思わせ、幅広のベルトは締めて腰をくびらせる。
 まろやかな胸のふくらみを辿れば、白磁の美貌を彩る蒼い瞳と金の巻き髪。
 金のラーフィーネ、泉の淑女、艶やかな森の華。
 十五でルグに嫁いで十年、二人の子を産んでなお、その濡れた瞳は島の男の心を騒がせ、その存在は大陸にも響く。
「レイディ、お時間を頂き感謝いたします。淵の森のお方、どうかわたくしめに、名乗りの誉れを」
 長い睫の下にけぶる憂愁の瞳、白磁の頬には艶やかな朱唇、漏れる吐息は悩ましい。
「許します」
 嫋やかな繊手が黒騎士の口づけを受け入れる。
「トゥーガスの連なり、見張る者エンディネーミとその守護ダルダイドが一子、エクタールにございます。
 いまだ役目が定まらぬ若輩者ですが、仮ながらトゥーガスの森の境界を見定めております」
 ――――スッ、と。
 ラーフィーネの瞳から、清水の涙が、ひとすじ。
「レイディ、どうなされた?」
「……許してくださいまし、エオ様。
 久方ぶりに森の名乗りを聞いたゆえ、心に響いてしまいました。
 ……あぁ、大丈夫です」
 侍女が、そっとラーフィーネの頬をぬぐう。
「淵の森より分かれた者、泉のラーフィーネ。
 すでに森から離れた身ですが、一族の長と森の隣人の許しを得て、泉の名を冠しております。
 トゥーガスのエクタール、仮とは言え、境(さかい)の森の見張りの責はただならぬもの。
 それをお一人で果たしておいでですか?」
 黒の若者は、口の端を歪めた。
「かつては、母も、兄も、ただ独りで為しておりました。それに兄が森の中を閉ざしてくれましたので、非力な身でも責を全うすることができております」
 頷いたラーフィーネは、暫し何かを言い淀み、膝をつく若者の表情を伺う。
「…………エクタール、トゥーガスのエクタール、あなたの母君の――」
 母君の、と続く言葉は、庭から響いた召使の金切り声をかぶり、消された。
「お姫(ひい)さまが、誰か、誰かお姫さまを、誰かーーーーっ!」



 幼い少女の周りを、風が渦巻く。
 秋桜の花びらはちぎれて舞い、豚が怯えて走り回る。
「フィリー! だめだ、フィリー! 聞こえないの!? フィリー!!」
 セタンは必死に少女に近づこうとするが、風に阻まれ伸ばす手もむなしく、吹き飛ばされる。
「セタン、いったいどうした!」
 駆け寄った黒騎士が少年を抱き起こす。
「わかりませんっ、いきなり風が吹いて、フィリーを、フィリーを!」
「フィリノーフィア!!」
 続いて屋敷から飛び出したエオが杖を振り上げ、呪を唱え始め――
「だめです、エオ様!」
 ――ラーフィーネがエオの腕にしがみつく。
「レイディ、何をするのです!?
 お離しくださいっ、妖精の仕業ならば彼らを追い払わなければ!」
「だめです、エオ様、足が、あの子の足がもう!」
 青々とした草はなぎ倒され、引きちぎられ、鋭い風に乗って空を切る。
 倒された草の上に、白く生えたのは小さな無数の茸。それは周囲に円陣を象り、少女の足首は内側の地面に沈み込んでいく。
「エオ殿、妖精の輪です! 呼ばれているのです!  いま術をかけては召還が中途で断ち切られ、妹御の足がもがれる!」
「しかしこのままではっ……どうしろと!」
 エクタールは立ち上がり、叫ぶ。
「お前たち! なぜここまで来た?
 ここは人の城、お前たちの住処ではない!
 定められた境界を越えてはならない!」


 ざあぁああああ


 風は草を巻き上げる。
 眼前。
 出現したのは奇妙な生き物。
 小猿のような体に丸く大きな目、グロリと頭を振れば額の一本角も揺れる。
 灰の体毛に埋もれた口が開き、緑色の舌がぬめる。
『ヤクソクした、ヤクソクした、また遊ぶとヤクソクした、金の子ども、フィー。
 だから来た』
 木々が軋み、低く擦れた声が頭に響く。
「確かに約した、しかしそれはお前たちのそばにいる時のこと。
 ここは人の城、この世の地であり、お前たちの住む森ではない!
 境(さかい)の約束を破っているのはお前たちではないか!?」

 ざあああああああああぁあああぁあああ

『破っていない! 境のヤクソクを破っていない!
 ここは境のウチガワ、境の中!
 広がった、広がった、境は広がった!』
 笑い声が頭を締め付けエクタールの足は崩れ、フィリノーフィアの体は腰まで地の円陣に沈む。
「いやあああぁあああ! フィリー、お願い、連れていかないで!
 やめて、もう、お願い、もうやめて!」
 貴婦人の悲痛な悲鳴が灰の猿の注意を引き――黒騎士は短剣を抜いて切り裂いた。


 己の左腕を。

 

   

 2010.04.20