男は18枚目の書類に署名する。
「おい、病みあがりの人間である俺に、この仕事の量は酷だと思わんか?」
「病みあがりですか。大変ですね」
「……その、明らかにどうでもよさそうな口調で言うのは止めてくれ」
女は持参した書類を男の目の前に置き、執務机に新たな書類の小山が増える。
うめいた男に同情の視線を投げ、窓のそばに立つ。
「病みあがりといえば、今回取られた休暇は、本当はご病気ではなく、右中指の突き指だと聞きましたが」
「誰に」
女は窓の外、石畳みを歩く男の部下たちを示す。
男は渋面を作る。
「……お前、盗み聞きは良くないぞ。公共の場所で会話をすれば確かに不特定多数に聞かれてしまうが、だからといってそれで得た情報を漏らしては」
「『上層部の誰に贈答品を送れば貴官のように出世するのか、ぜひ先達の知恵を教えて頂きたく存じます』と尋ねられまして、その際に」
男は頭を抱える。
「すまん。……あいつか」
「眦を、こう、決して、目を輝かせていましたよ」
女は指で自身の両目を吊り上げる。
「……怒っているのか?」
常に無い女のおどけた仕草に、男は戦慄しつつ、問う。
「いいえ。きちんと返事も致しましたし、腹立たしいことはありません」
女は微笑む。
「可愛らしい方ですね。私があなたに会う時に同席できないのが、よほど悔しいようです」
「……親父の親友の娘さんでな。俺の幕僚になりたいんだとごねたらしくて、一度は断ったが、無理やり押しこまれた」
「有能な方なのでしょう?」
「だから困る。使えなければ、それを口実に辞めさせようと思っていたのだが」
背を伸ばし、男は椅子を軋ませる。
「お前の
女は男を見る。
「うちの部下とお前の、微妙な仲が気に食わん。天才である俺の下についたことで勘違いしている者もいる。部隊長級との関係も良くない者も多い。ここはひとつ、お前とお前の子飼いの連中に躾けてもらわんとな」
「躾、ですか」
「そうだ。上手いだろう、お前。うむ、物事は適材適所、得意な人間がするのが効率が良い」
「……演習は構いませんが」
「そうかそうかそうかそうか。いや良く言ってくれた。やはり頼りにすべきは――」
満面の笑みを浮かべ嬉々とする男に、女は机の上の書類の山を指し示す。
「増えますよ」
「……手伝っていってくれるな?」
「天才に助力が必要とは、はじめて知りました」
女は笑って、受け取った連名用書式の書類に署名した。
脱稿 2005.04.17
改稿 2005.05.03