或ル国ノ話

064.before the death



老いた猟犬の体温は、ずいぶんと高かった。
耳の内側や後ろ足の付け根を触ると、かなり発熱しているのを感じる。
ここ最近、歩く速さも距離も遅くなり短くなり、漠然とその衰えを女は感じていた。
それでも餌は食べるので、
(まだ大丈夫でしょう)
そこまで不安ではなかったのだ。

「げんきないの?」

幼子は猟犬を撫ぜ、女を見上げる。
気性の穏やかなこの猟犬は格好の遊び相手で、耳や尻尾や体毛を引っ張る幼子に、いつも我慢強く対応をしていたのだった。

「あるけないの?」

それゆえ幼子もよく懐き、五日前の朝食後にさぁ遊ぼうと住み家の厩舎を訪れたのだった。

「えぇ、そうです」



進行性の麻痺だった。
脊髄からの病で、その日から老犬は歩かなくなったのだ。



――老婦人の館の馬番(館で飼育している動物の管理を取り仕切っている)は、後ろ足をつねり、完全に痛覚まで麻痺しているのを確かめ、
「余命十日だな」
女に告げた。

「背中のな、後ろのあたりから固まってくんだ。小せぇ犬ほど進みが早くってな、朝メシは立って食えたってのに、昼メシはもう前足しか立たねぇなんてことがザラにある。まだこいつは体がでけぇからな、一日でこれっくらい、」

親指の先から第一関節までを示す。

「固まってくのが進む。それが最後に喉まできたら、なンも食えねぇし、息も止まって死ぬんだな」

馬番は老犬の首を掻いてやる。

「治療法は?」

「……ありゃしねぇよ。体ってのは固まっちまったら元には戻らねぇし、こればっかりはどうしようもねぇことなんだよ」

女は馬番を見る。

「寿命だ。どうしようもねぇ。……まぁ、痛くない分、楽だろうさ」

馬番は「よく煮た餌をやんなきゃな」と呟き、老犬の腹を撫でる。
老犬が馬番の指を舐める。

「あんたが来てから産まれた犬だったな。……長生きしやがったぜ。あんたこいつの世話したのか?」

「私が最初に抱き上げました」

「……………………」

屈みこみ、女が老犬の眉間をさする。

「………………しょうがねぇよ。それが順番ってもんだ」

馬番は帽子を被りなおして、仕事に戻っていった。
老犬は暫くすると眠ってしまった。
女はそれまでずっと、厩舎にいた。



「ケガしたの?」
馬番の助手が作った粗末な寝床で、幼子はひたすらに老犬を撫でる。
もはや寝返りもうてない老犬は横向きになったまま、目をきょろきょろと動かしている。
動かないのが不満なのか、肉球をくすぐったりつついたりするが、まったく反応はない。

「いいえ」

「?」

女は幼子を抱き上げる。



心音を、感じる。(猟犬よりは、ゆっくりめの)
体温を、感じる。(猟犬よりは、低めの)



女は、耳をすます。
助手が厩舎の掃除をしている気配や、他の房にいる若い猟犬らの鳴き声が聞こえる。



「いつかくることなのですよ」



幼子を抱きしめ、女は厩舎から立ち去った。



老犬がその体温を失ったのは、それから三日後のことだ。



脱稿 2008.05.22